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創業者からのバトン

大変革期「勇気と決断」

沖縄トヨタ自動車株式会社
野原朝昌 代表取締役社長

​企画・制作 沖縄タイムス社営業局

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 わが社は、米軍統治下の1951年に創立しました。ガリオア資金(米国の占領地復興資金)で買い付けたトヨタ車への部品供給とトヨタトラックの販売を目的に、戦後初の民間運輸会社としてスタートしました。

 しかし、外車一辺倒の時代だけに累積赤字をたちまち抱えてしまい、創立3年目で、解散か存続かが問われる事態に陥りました。

 そのとき「自分が(株を)すべて引き受けます」と宣言し、わが社を再建したのが、創業者の一人、野原朝康でした。私の祖父です。戦前から自動車に魅せられ、戦中・戦後も自動車関連の仕事に関わっていました。

 社長に就任した朝康は、お客様第一主義を掲げ、社員の待遇を守る一方で、難問の資金繰りに奔走しました。

 そんな日々を朝康は「無我夢中だった。トヨタ自動車は必ず世界をリードすると思っていたから、逆に前向きに進めた」と回顧録で振り返っています。朝康が、神谷正太郎氏(トヨタ自販創始者)の影響を少なからず受けていたと私は想像しています。

 朝康の座右の銘は「勇気と決断」でした。

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創立当初の社屋(旧真和志村安里)

■イエロータクシーは観音様

 

  そんな苦難の時期に大型タクシー(料金25セント)が認可されました。朝康は、国産車がタクシーに利用されるチャンスが来ると予見し1957年5月、クラウン50台を1次入荷しました。思い切って乗用車販売へ舵を切ったのです。その1カ月後、予見通りに小型タクシー(料金17セント)が認可され、わが社に起死回生の活路が開けました。

 発売した「観音開き」のクラウンは、小型タクシーとしてデビューし、軽快な機動性が評価されました。ボディ色から「イエロータクシー」と呼ばれ人気を博しました。1960年までの3年間で、約800台の外車タクシーがクラウンに切り替わりました。

 朝康は「観音開き」のクラウンを「観音様の再来」と回顧しています。トヨタブランドが沖縄で認められたエポックになりました。

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沖縄最初の小型タクシーとなった左ハンドルRSD型クラウン

 その後、朝康は、1978年の「ナナサンマル交通変更」の対応では、わずか半年間で、左ハンドル車代替対象タクシーの65%の受注・納品に成功しました。同年度(28期)は、過去最高の売上高を記録しました。翌79年、私の父・野原朝文が社長を引き継ぎました。朝文は、販売網を広げ、堅実な経営手腕を発揮しました。2000年には、根気強く朝康、朝文を支えてきた金融機関出身の上地弘展が社長に就きました。そして、2011年、私が社長に就任しました。

■モビリティサービスの進化を

 

 自動車業界はいま、CASE(自動運転などの技術革新)により、100年に1度の大変革期を迎えています。創業者の座右の銘「勇気と決断」を受け継ぎ、「お客様第一主義」の理念の下、大変革期に挑んでまいります。その一環として今年4月、お客様だけにとどまらず地域のニーズに沿ったモビリティサービスをこれまで以上に提供できる体制が必要だと決断し、グループの4社(沖縄トヨタ自動車、沖縄トヨペット、トヨタカローラ沖縄、ネッツトヨタ沖縄)を統合して、自動車ディーラー事業などを沖縄トヨタ自動車に集約しました。統合によってグループはOTMとトヨタレンタリース沖縄との3社体制となり県内の販売店数は26店舗になり、それぞれ「トヨタウン○○店」と改称しました。トヨタウンには総勢960人の仲間がいます。その1人ひとりが、県民1人ひとりの暮らしや生活にもっと寄り添いたい、皆様のそばでカーライフを守っていきたい、と願っています。沖縄トヨタ自動車は、沖縄にとってかけがえのない会社へ成長してまいります。(談)

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​© 沖縄タイムス
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